南京政信君を悼む
当会の会員、南京政信君が逝去されたとの連絡を受けたのは、4月6日朝のことでした。前日の5日に病没されたとのことでした。突然の、そして享年42歳というあまりに早すぎる悲報でした。
彼、南京政信君が羅須地人の仲間になったのは、彼がまだ九段高校に通う高校生の頃でした。糸魚川の最末期にぎりぎり間に合ったのですが、すぐに糸魚川撤退。その後、東北大学への進学や就職などで、一時は羅須地人の活動への参加が遠のいた時期もありましたが、まきば線の活動が本格化してきた頃、まきば線での活動にもちょくちょく顔を見せるようになりました。
彼はちょうどその頃、念願の鉄道総合研究所への転職を果たした時期で、鉄道に対する熱い思いを語っていたことが思い出されます。
彼の作業で印象に残っているのはフラットカー1502へのレタリングです。アメリカンナローの代表格、デンバー&リオグランデ・ウエスタン(D&RGW)鉄道に使われていたという有料のフォントをネットからダウンロードしてきて、車両番号の「1502」のレタリングを行ったのでした。アメリカンタイプのフラットカーにそのレタリングはとてもよく似合いました。彼の想いがこもったこだわりと丁寧な仕事振りはいまも「1502」の標記に見ることができます。
そして彼のまきば線での大きな成果の一つに腕木式信号機があります。デルタ線の脇に佇むその信号機はもともと石川県の尾小屋鉄道金平駅に設置されていたもので、尾小屋鉄道が廃線になった後に羅須地人鉄道協会が購入し、一時は糸魚川の東洋活性白土専用線に設置されていました。糸魚川からの撤退後は、他の資材とともに分解・保管されていましたが、部品ごとに分解されているだけでなく、長期間の保管の間に木製の矢羽は折れ、信号灯のレンズも割れ、塗装は剥げ、鉄部のあちこちが錆びているような状況で、まきば線に運び込まれていました。
当時はまだ車両や線路の整備で手一杯だったので、とても信号機にまで手が回る状況ではなかったのですが、彼は一念発起し、その錆だらけの部品の錆をこつこつと落とし、信号機の修復作業を開始しました。彼の仕事振りは黙々としかし着実に進み、着手から約2年後の、赤い矢羽も鮮やかにまきば線の空に出発信号を掲げたのでした。
信号機の次の彼の夢は木造客車でした。
「まきば線に似合う小さな木造客車が造りたいなぁ」
彼はさまざまな資料や写真を集め、設計図面を引くとともに、客車を作るために、なんと指物師の先生のところに弟子入りしたのでした。窓枠や扉、椅子など木造客車の製造には指物の技術はとても有用でしたが、一緒に活動していた羅須地人たちは「まさかそこからアプローチするとは!」と、呆れ半分驚き半分で彼の話を聞いていたのでした。
彼の本職である鉄道総合研究所での専門はブレーキだったそうです。
研究上の秘密保持もあったためか、彼が彼の仕事のことを多く語ることはありませんでしたが、それでもブレーキの制動試験のため、JR西日本から借りた583系で深夜の湖西線を爆走する話や、今も開発が続くフリーゲージトレインのブレーキ構造の話は、鉄道の構造に興味があるわたしたちにとっては大変興味深い話でした。そのフリーゲージトレインの高速試験線での耐久試験のため、ロッキー・ナローの本場、米国コロラド州にも長期出張に行ったりして、仲間たちを羨ましがらせていましたが、当の本人は出張中ほとんど休みがなく、「今度は休みを取って行きたいなぁ!」などと話していたのを思い出します。
その彼が鉄道総合研究所から航空・鉄道事故調査委員会に出向になったのは2005年4月のことでした。
そしてブレーキの専門家の彼を待っていたかのように、2005年4月25日、あの福知山線の事故が発生しました。彼は調査委員会の一員ということもあり、あの事故に関してはわたしたちにもほとんど語りませんでした。しかし、ことブレーキの状況が事故原因に大きく絡んでくる以上、ブレーキが専門の彼が、事故調の最前線で奮闘を続けたことは想像に難くありません。しかも多数の方が亡くなるという悲惨な鉄道事故についての調査ということで、そのストレスは想像を絶するものだったことでしょう。
彼が出向を解かれ鉄道総研に戻ってきた頃には、すでに彼の身体を病魔が蝕み始めていたそうです。
彼はそのようなことはおくびにも出さず、時折ゆめ牧場にやってきてはまきば線の活動に参加していきました。その間も彼の客車製造のための資料は集まり続け、彼の指物の技術も少しずつ向上していきました。彼の頭の中にある客車が着工されるのは、そう遠い先の話ではないと誰しもが思っていました。
彼が最期に羅須地人の仲間たちと会ったのは昨年末の忘年会のことでした。彼は初めてそこで自分が悪性の腫瘍に侵されていることを仲間たちに告げたのでした。しかし、彼の明るい笑顔で夢を熱く語るさまに、ほとんどの仲間たちがそれほど深刻な状況ではないという印象を持ちました。まだ充分治療の余地があるのではないかと。
しかし、今思うと、彼はお別れを言いに来ていたのかもしれません。
彼が逝った日は羅須地人鉄道協会の活動日でした。活動の合間にふと彼の話題が出ました。
「そういえば最近姿を見ないねぇ」「そろそろ客車の材料でも送りつけて発破かけちゃおうか」
まさかその頃、彼がこの世を去ろうとしているとは微塵も思いませんでした。
まだ、彼がこの世を去ったということが実感できません。今度の5月の蒸機運行日にも、またいつものように木造客車の設計図や写真が一杯入ったスクラップブックを手に、ふらりとまきば線に現れるような気がしてなりません。
残念ながら彼はもうこの世にはいません。でも、彼と共に創り上げてきたこのまきば線の活動を、わたしたちは末永く続けていきたいと思います。まきば線が続く限り、彼の「ゆめ」もここにあるのだから。
彼、南京政信君が羅須地人の仲間になったのは、彼がまだ九段高校に通う高校生の頃でした。糸魚川の最末期にぎりぎり間に合ったのですが、すぐに糸魚川撤退。その後、東北大学への進学や就職などで、一時は羅須地人の活動への参加が遠のいた時期もありましたが、まきば線の活動が本格化してきた頃、まきば線での活動にもちょくちょく顔を見せるようになりました。
彼はちょうどその頃、念願の鉄道総合研究所への転職を果たした時期で、鉄道に対する熱い思いを語っていたことが思い出されます。
彼の作業で印象に残っているのはフラットカー1502へのレタリングです。アメリカンナローの代表格、デンバー&リオグランデ・ウエスタン(D&RGW)鉄道に使われていたという有料のフォントをネットからダウンロードしてきて、車両番号の「1502」のレタリングを行ったのでした。アメリカンタイプのフラットカーにそのレタリングはとてもよく似合いました。彼の想いがこもったこだわりと丁寧な仕事振りはいまも「1502」の標記に見ることができます。
そして彼のまきば線での大きな成果の一つに腕木式信号機があります。デルタ線の脇に佇むその信号機はもともと石川県の尾小屋鉄道金平駅に設置されていたもので、尾小屋鉄道が廃線になった後に羅須地人鉄道協会が購入し、一時は糸魚川の東洋活性白土専用線に設置されていました。糸魚川からの撤退後は、他の資材とともに分解・保管されていましたが、部品ごとに分解されているだけでなく、長期間の保管の間に木製の矢羽は折れ、信号灯のレンズも割れ、塗装は剥げ、鉄部のあちこちが錆びているような状況で、まきば線に運び込まれていました。
当時はまだ車両や線路の整備で手一杯だったので、とても信号機にまで手が回る状況ではなかったのですが、彼は一念発起し、その錆だらけの部品の錆をこつこつと落とし、信号機の修復作業を開始しました。彼の仕事振りは黙々としかし着実に進み、着手から約2年後の、赤い矢羽も鮮やかにまきば線の空に出発信号を掲げたのでした。
信号機の次の彼の夢は木造客車でした。
「まきば線に似合う小さな木造客車が造りたいなぁ」
彼はさまざまな資料や写真を集め、設計図面を引くとともに、客車を作るために、なんと指物師の先生のところに弟子入りしたのでした。窓枠や扉、椅子など木造客車の製造には指物の技術はとても有用でしたが、一緒に活動していた羅須地人たちは「まさかそこからアプローチするとは!」と、呆れ半分驚き半分で彼の話を聞いていたのでした。
彼の本職である鉄道総合研究所での専門はブレーキだったそうです。
研究上の秘密保持もあったためか、彼が彼の仕事のことを多く語ることはありませんでしたが、それでもブレーキの制動試験のため、JR西日本から借りた583系で深夜の湖西線を爆走する話や、今も開発が続くフリーゲージトレインのブレーキ構造の話は、鉄道の構造に興味があるわたしたちにとっては大変興味深い話でした。そのフリーゲージトレインの高速試験線での耐久試験のため、ロッキー・ナローの本場、米国コロラド州にも長期出張に行ったりして、仲間たちを羨ましがらせていましたが、当の本人は出張中ほとんど休みがなく、「今度は休みを取って行きたいなぁ!」などと話していたのを思い出します。
その彼が鉄道総合研究所から航空・鉄道事故調査委員会に出向になったのは2005年4月のことでした。
そしてブレーキの専門家の彼を待っていたかのように、2005年4月25日、あの福知山線の事故が発生しました。彼は調査委員会の一員ということもあり、あの事故に関してはわたしたちにもほとんど語りませんでした。しかし、ことブレーキの状況が事故原因に大きく絡んでくる以上、ブレーキが専門の彼が、事故調の最前線で奮闘を続けたことは想像に難くありません。しかも多数の方が亡くなるという悲惨な鉄道事故についての調査ということで、そのストレスは想像を絶するものだったことでしょう。
彼が出向を解かれ鉄道総研に戻ってきた頃には、すでに彼の身体を病魔が蝕み始めていたそうです。
彼はそのようなことはおくびにも出さず、時折ゆめ牧場にやってきてはまきば線の活動に参加していきました。その間も彼の客車製造のための資料は集まり続け、彼の指物の技術も少しずつ向上していきました。彼の頭の中にある客車が着工されるのは、そう遠い先の話ではないと誰しもが思っていました。
彼が最期に羅須地人の仲間たちと会ったのは昨年末の忘年会のことでした。彼は初めてそこで自分が悪性の腫瘍に侵されていることを仲間たちに告げたのでした。しかし、彼の明るい笑顔で夢を熱く語るさまに、ほとんどの仲間たちがそれほど深刻な状況ではないという印象を持ちました。まだ充分治療の余地があるのではないかと。
しかし、今思うと、彼はお別れを言いに来ていたのかもしれません。
彼が逝った日は羅須地人鉄道協会の活動日でした。活動の合間にふと彼の話題が出ました。
「そういえば最近姿を見ないねぇ」「そろそろ客車の材料でも送りつけて発破かけちゃおうか」
まさかその頃、彼がこの世を去ろうとしているとは微塵も思いませんでした。
まだ、彼がこの世を去ったということが実感できません。今度の5月の蒸機運行日にも、またいつものように木造客車の設計図や写真が一杯入ったスクラップブックを手に、ふらりとまきば線に現れるような気がしてなりません。
残念ながら彼はもうこの世にはいません。でも、彼と共に創り上げてきたこのまきば線の活動を、わたしたちは末永く続けていきたいと思います。まきば線が続く限り、彼の「ゆめ」もここにあるのだから。
タグ:おわかれ
双葉荘で、彼と夜中まで話をしたことを思い出しました。
南京君のあまりに早すぎる旅立ちに、心からご冥福を
お祈りするしかありません。
by 四半世紀ご無沙汰 (2009-04-22 17:21)
コメント訂正させてください。
久しぶりに古いアルバムをひっくり返したところ、上記コメントで
私が双葉荘で語っていたというのは、南京君ではなくO君でした。
ただ、南京君が、当時はたくさんいた学生諸君らと共に、確かに
私の記憶の中に存在していますことを、あらためてお伝えします。
by 四半世紀ご無沙汰 (2009-04-28 14:36)
南京さん、突然のことにびっくりしました。
糸魚川末期に顔を出し、足手まといでしかなった子供達も、
今ではとっくに中年なんですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。
by 当時の最年少組 (2009-05-05 16:18)