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糸魚川と2号機の思い出 [活白2号機]


3号機に群がり記念写真
中央には松沢さんの姿も(画像提供:片岡さん)

わたしたちと東洋活性白土株式会社、そして糸魚川市のみなさんとのお付き合いは、昭和47年に遡ります。
羅須地人鉄道協会の前身に当たる「全日本小型機関車研究会」は、当時、台湾の炭鉱から小さな蒸気機関車を1両持ってきました。この機関車(現3号機)を、国鉄小倉工場などで整備し、各地で展示などを行っていました。そして、その展示が終った後の保管場所を探していたのですが、このときに糸魚川市の東洋活性白土株式会社の山田政義社長(当時)に、わたしたちの機関車を置かせていただくよう、お願いに行ったのでした。当時からも、この会社にある小さな専用線は、小さな蒸気機関車(2号機・通称くろひめ号)の働く路線として、鉄道ファンの間では知る人ぞ知る存在でした。
運輸課長であり、2号機の機関士だった松沢義男さんからの口利きもあり、山田社長は「ああいう若い人たちには好きにやらせてあげなさい」と、機関車の保管を快く引き受けていただいたのでした。
その後、全日本小型機関車研究会から機関車などを引継いだわたしたち羅須地人鉄道協会が、東洋活性白土専用線を舞台に活動を行っていくのですが、様々なところで、社長の山田さん、運輸課長の松沢さんをはじめとする糸魚川のみなさんにお世話になったのでした。

当時の羅須地人の活動メンバーのほとんどはまだ学生でしたので、あまりお金を持っていません。見かねた松沢さんがご自宅の近くにある旅館に掛け合っていただき、格安の料金で泊まれるようにしてくれたのでした。それも朝夕2食つきで。これにはお金のない学生会員などを中心にとても助けられました。昼食は、糸魚川市内の商店街で食パンやコロッケを購入、ソースをかけてコロッケパンとして食べたりしました。お店の方におまけをしてもらったのも懐かしい思い出です。
こうして糸魚川市のみなさんに支えられて羅須地人の活動は始まったのでした。

実際の活動でも、松沢さんに様々なアドバイスをいただきました。初めて蒸気機関車の整備を行うわたしたちにとって、運輸課長として日々蒸気機関車を整備運行していらっしゃる松沢さんのアドバイスは大変貴重なものでした。松沢さんの手ほどきを受けながら、車両整備などを身をもって会得していったのです。
現役当時の2号機はいつもロッドが微妙に光っていました。それは松沢さんが手が空くと、いつもオイルストーンで磨いていたからでした。グリースを塗りつけるなんて事は無く、いつもいい塩梅に油が回っていました。そのロッドを見るだけで、松沢さんの機関車に対する愛情がひしひしと伝わってきたものでした。そのような機関車に対する姿勢までも、松沢さんから教わったのでした。


みんなの中心に松沢さん(画像提供:片岡さん)

このような指導を受けながら、わたしたちの活動も徐々に広がりを見せ始めました。糸魚川で活動を始めて3年目にあたる昭和50年には、工場の敷地内にわたしたちのための側線を敷設する許可をいただき、線路敷設が始まります。この工事は順調に進み、昭和55年には機関庫を建設するまでになりました。これも社長の山田さんのご理解があってこその建設でした。
このころには、わたしたちも糸魚川市内の金物屋さん、材木屋さん、塗料屋さん、燃料屋さんなど、様々なお店ですっかり顔なじみになっていました。

そして会の活動も軌道に乗り始めた昭和53年には、はじめて糸魚川市の皆さんをご招待した運転会が開催されます。社長の「市民の皆さんも乗せてあげてほしい」という気持ちと、わたしたちもお世話になった糸魚川の方々に感謝したいという気持ちが一つになり、開催にこぎつけました。5月3日に開催された運転会は、山田社長や松沢さんも近隣の方々にずいぶん宣伝していただいたようで、たいへん盛況のうちに終ることができました。
この運転会は、糸魚川市のみなさんにも大変好意的に受け止めていただき、工場の近隣の方のみならず、宿泊先である双葉荘の女将さんを始め、たくさんの方においでいただき、たいへんご好評をいただき、毎年5月の恒例行事となっていったのでした。

運転会などの活動に際して、わたしたちは山田社長に御礼の品を届けていましたが、あるとき松沢さんから、「社長は三越のコーヒーが大好きなんだよ」とアドバイスをいただきました。それからは糸魚川に行く前に三越でブルーマウンテンの豆の詰め合わせを仕入れるのが恒例となりました。初めてお贈りしたときには、社長は「おお、三越のコーヒーだぞ!」と大喜びされ、手ずから手挽きミルで豆を挽いて、幹部社員にコーヒーを振舞ったと、松沢さんから伺い、わたしたちも大喜びしたものです。

翌年の昭和54年には、運転会の前日の5月2日に、3号機と6号機の重連で山田社長のための“お召し列車”も運転され、山田社長にも大変お喜びいただきました。
昭和55年の運転会は、地元メディアに紹介されたこともあり、大変な賑わいの運転会となりました。羅須地人のメンバーたちもてんてこ舞いの忙しさでしたが、「毎年、これが楽しみでねえ」とお孫さん連れの方に言われると、疲れも吹き飛ぶほど嬉しかったのも良い思い出です。
この後、3号機・6号機を神戸のポートピアで開催された博覧会に貸し出した関係で、昭和56年・57は運転会を中止としましたが、例年5月の運転会はわたしたちにとって糸魚川市のみなさんと交流する大変よい機会となりました。

そしてその間も、山田社長のご理解の下、車両増備も着々と進みました。昭和53年には6号機、昭和56年には、メンバーの自作の蒸気機関車12号機も入線し、羅須地人鉄道協会の活動もますます活発になっていきました。
昭和57年1月には、雪の中、2号機を動かしていただき、念願だった元頸城鉄道のラッセル車を使っての初の除雪運転も行っています。糸魚川に着いた日には全く降雪がなかったのですが、その日の午後から大雪となり、当日は一面の銀世界になりました。はしゃぐわたしたちに、松沢さんが「俺たちは雪が少なくて喜んでいたのに」と微苦笑していたのも、忘れられない思い出です。
こうしてわたしたちは山田社長や松沢さんをはじめとする、糸魚川のみなさんにも温かく見守られ、楽しい日々が続きました。そしてこのような日々がいつまでも続くものと信じていたのでした。

しかし、その年の7月、衝撃のニュースが飛び込んできました。10月で東洋活性白土株式会社が解散し、この専用線も廃止になるというのです。わたしたちとしては、活動の場所が失われるということも痛手でしたが、糸魚川のみなさんとお別れしなければならなくなるということにも大きなショックを受けたのでした。

昭和57年10月10日、廃止となる最後の日に、2号機と共に「さよなら運転会」を盛大に開催し、東洋活性白土専用線は糸魚川のみなさんにお別れを告げたのでした。
すべての車両を連結した最終列車が積み替えホームから工場へと戻るとき、先頭に立ったのは松沢さんが操る2号機でした。さすがの2号機も、列車の重みで大空転を連発し、最後までわたしたちに「本物の機関車」のパワーを見せ付けたのでした。

その後、羅須地人鉄道協会は活動場所を求めて流浪の日々を過ごします。そんなわたしたちに追い討ちをかけるように、昭和59年9月、さらに悲しいニュースが入ってきました。東洋活性白土専用線廃止から2年も経たないうちに、松沢さんがお亡くなりになったというのです。
松沢さんの死は、羅須地人鉄道協会にとって、一つの時代の終わりを告げるものでした。わたしたちは大きな喪失感の中、松沢さんに、そして第二のふるさと糸魚川にお別れを告げたのでした。


松沢さんと2号機(画像提供:正村さん)

こうしてわたしたちにとっての糸魚川の日々は終りました。そこで過ごした日々は、もうずいぶんも前のことになってしまいました。新たな場所で活動を続けていくうちに、わたしたちの中にも、糸魚川での活動を経験していないメンバーが増えてきています。しかし、まだ高速道路もほとんどない中、東京から延々と自家用車を運転して通った糸魚川、松沢さん・山田社長そしてそこで出会ったたくさんの方々との思い出は、今もわたしたちの活動の根底に流れ続けています。

今回、ほんの些細なきっかけから、わたしたちは再び2号機とじっくり向き合う機会を得ることができました。25年前を知るメンバーたちは、2号機のあちこちに松沢さんの面影を感じ、「松沢さんの見ているところで手抜きはできないだろう」と作業に真剣に打ち込みました。ぼろぼろに腐食した運転台後部の板は再生不能でそのまま取り外されることになりましたが、そのままではその板についていた運転席もなくなってしまいます。外見上は大きな問題はないのですが、「2号機に松沢さんの席がないなんて訳にはいかないよな」とあるメンバーが言い出し、結局、その部分は新たに作りなおされたのでした。
25年前を知らないメンバーも、ロッドに挿んであったすき間調整の手作りシムや、25年前のままの工具箱の様子から、改めて松沢さんの人となりを感じ、薫陶を受けることができました。
作業が終った夜、機関庫に入った2号機を見ながら、松沢さんや糸魚川の思い出を遅くまで語り合うこともありました。
私たちの元に2号機が訪ねてきてくれたのは、ほんの9日間ですが、とても充実した日々を過ごすことができました。そして、久しぶりに松沢さんとじっくり語り合えたような気がしました。

今回、2号機の整備された姿をご覧になった多くの方々に、お褒めの言葉をいただきました。「どうやったらこの短期間でここまでできるのか?」とお聞きになられた方もいらっしゃいました。しかし、わたしたちは何も特別なことはしていないのです。あの日、あの機関庫で松沢さんに教わったことをそのままやっただけです。
それが、松沢さんに、山田社長に、そして糸魚川市の皆さんに、少しでもご恩返しになれば、こんなに幸せなことはありません。

…わたしたちが整備した2号機に、松沢さんは合格点を出してくれたでしょうか?


今回の整備で、キャブ内の検査票入れの中には
微笑む松沢さんの写真が入れられた


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転石人

懐かしの2号機、レストアなんて縁があるね。
松沢さんの隣のF井さんの若い顔。びっくり。
今じゃ、まきば線のたこ焼きやの親爺だものね。
「まっ沢さん」と糸魚川風に「つ」を小さく発音して読みました。
by 転石人 (2007-07-07 14:32) 

たこ焼きやの親爺

あの若さは本人が一番感動しています
by たこ焼きやの親爺 (2007-07-07 23:23) 

野筵坊

そういえば、長ずるに及んで、夜の街に出たがる我々に、「親不孝通り」の存在を教えながら、そのなかでも安全に呑める店を教えてくれたのま、まっつさわさんでしたなあ。
by 野筵坊 (2007-07-08 16:54) 

青海のもつなべ

驚いたなあ、頸城の車両が出てきたのと同じ位の驚き。2号機なんて誰が最初に言い出したか忘れたけど、糸魚川にハナハナ号持っていくときから3号ってなったんだっけ。2号機何年ぶりに再会できるんだろう、30年近いのかあ。
突然思い出したけど、頸城の車両買いに行った時に、誰かに売ったという話をされたらしいよねえ。そんで残ってたラッセルが来たんだっけ。でかくてビックリだった。2号機よりでかいんだもんね。
どこの書き込みだったか、神田で8号機の話、あれってどっちかというと吉祥寺で話してたイメージ。神田はなぜかAさん筆頭にマージャンからガード下の飲み会コースの記憶だけがあったりして。
なんだか支離滅裂だけど、歳取ったことだけは再認識。
K岡氏、M村氏もお元気で何よりです!
by 青海のもつなべ (2007-07-12 12:45) 

元汽車くのM村

>青海のもつなべ 様
元気にやっております!
昔、撮った財産だけでHPやっております。覗いてみててください。K岡氏も最近またぞろ何か始めようとしているようです。
http://www.nhk-book.co.jp/tv_r/tetsudo/
の左下の目次を見てください。黎明期の羅須OBの名前が他にも数名・・・。
>殿 さま。
掲示板でははじめから実名晒してますので。M村は慣例に従ってということで。

ところで、大鉄道博覧会の一般公開初日の10日に、NHKの昼のニュースでも流してましたね。(全国版かローカルかは忘れました)
下工弁慶はたくさん移ってましたが、2号機は正面がインタビューのバックに少しだけでした。
by 元汽車くのM村 (2007-07-12 22:48) 

青海のもつ煮

>元汽車くのM村さま

正村さん、どちらもなかなか味のあるHPですね。私も感化され
過去の記録をと考えましたが、フィルムはカビだらけでした(涙)

下工弁慶号初めて知りました。鉄分、かなり抜けているもので。
探し出したサイトに、羅須さん出身でせんろ商会?なる人が
かなりこの機関車に関わっていると出てましたが、私の時代
(糸魚川)とは完全にすれ違いの様でした。それとも当時いた
学生さんなんですかねえ。
by 青海のもつ煮 (2007-07-20 17:12) 

元汽車くM村

>青海のもつ煮さま。

"フィルムはカビだらけでした(涙)”とのことですが、モノクロでしたら救出できますよ。それも意外に簡単に!
私はK岡氏から教えてもらいましたが、不織布やクリーニングペーパーなどのネガに傷を付けないものにエタノールを含ませて丁寧にふき取るだけです。ふき取った後は様子を見ながらカビの程度により1~3回程度繰り返せばほぼ問題の無いレベルまで綺麗になります。
エタノールなので、そのまま乾燥させても大丈夫かと思いますが、よく水洗した方が良いかもしれません。昔の画像を救い出して是非見せてください。
by 元汽車くM村 (2007-07-20 21:56) 

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